『知らないでいること』と『知ろうとしないこと』

例えばふたりの人がいるとしよう。片方が何か『知らないこと』があったとして、それを口に出して声に出して相手に言わなければ、相手の人は、その人が『知らないこと』があるということを知ることができない。 『知らないこと』が明らかになった時に、その知らないことに対して知識を共有できたり、それに対して、また違ったものの見方というのが明らかになったりするのである。 双方で『知らないこと』を言い合えるというのはお互いにメリットがあるのである。二人だけではなく集団の中でも同じである。『知らないこと』を口に出して言うことは集団の中の新たな『気づき』を促すという面で有効なことなのである。



だから『知らないこと』を『知らない』と言ってくれる人というのは、非常にありがたい人なのである。 また、まわりの環境もそういう『知らないこと』をすぐに言えるような環境が必要である。 よく『そんなことも知らなかったのか』と言う人がいるが、そういうことを言う人は、そういうような『知らないことを口に出して言える』ような環境をつぶしてしまっている。 上に書いた『知らないことを知らないと言う』ことの利点(気づきの原点)を理解してない人と言えよう。



なので、俺は知らないでいることはまったく恥ではないと思っている。どちらかと言うと『知らないこと』や『わからないこと』はどんどん言ってきてもらったほうが逆に嬉しい。 そういうことに関して人を見下したりとか、バカにしたりとかするようなことはしない。



俺が叱るのは、業務や集団の中で、その人が当然持っていなければならない知識や役割を『知ろうとしないこと』に対しては叱る。 (怒るじゃない、叱るである 感情的なことは言うべきでない)

当然、彼や彼女に、そこでの役割を『何故あなたがそれをしなければならないか』という説明を行い、相手の理解も得ているはずなのに(ここに相手がきちんと理解してるというこちらの思い込みが存在するのかもしれないが、よしんば相手もやる気を見せている上で)、それに対して必要な手段を『知ろうとしないこと』、そのことに関しては『知らないとできないこと』であるという認識があるから尻を叩いてでもやってもらわなければならない。何故ならば、そこは『その人の責任』において成し遂げなければならないことだからだ。



そうして『知ろうとしないこと』という態度をとる人の多くは、それ以前に『知らないこと』を言おうとしない人が多い。



『言えない』のか『言いたいけど説明できない』か、『言いたくない』のか、言う側と言われる立場側の人間関係、力関係、周囲の情況において、これはかなりいろいろなパターンがあって(それについてはいずれまとめる)一概に言えないのだが、業務とか責任のかかった場面において、『言わない』ことはプロ意識の欠如である。 これは明言しておこう。 

 

業務上のことは、かなり強く言ったのだけど、普通の付き合いの中では、やはり、自然になんでも言い合え、その中で双方を高めあえるような関係ってのが望ましいものですね。 そう在りたいものだ。


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