問題を解決するということ

前にどこかで書いたことかもストーリーかも知れないけど、 とある人と目標を達成する為にはどうすればよいかという話をしている中でどうも話がまとまらなく、話を突き詰めてみると「努力」って何? という話題になった。

つまり、その人にとってみれば、「努力とは目標を達成するためにすること」という概念で、(たしかに半分はそうかもしれない。)「そのために便利な手段があれば、それを利用してなるべく最短で目標を達成すればよい。 それが努力なんだ」と。 (おーい。orz) 世間一般には目標達成のために中間目標の達成のための積み上げを行うことを努力というんじゃないかい??  と、その人は普通の人から見れば努力しないことが努力だと思ってたらしい。 


上の例は極端な例だけど、一般に簡単な言葉の概念ほど非常に曖昧で、人によっていろいろ思っていることが違う場合というのはよくある。 プロジェクトを進行するにあたって概念定義を念蜜に行うのは、言葉の定義をはっきりさせ、同じ行為・行動が他の人にとっても同じ行為・行動でないと混乱するからだ。

 一般の生活においては、狭い範囲のコミュティーや団体で思想や概念、言葉が持つ意味を共有することで、それこそ言わなくてもわかるというような状況になる。 それがその場の慣習やしきたりとなったりする場合も多い。 ただ、そうじゃない場所、多数の未知の人物との交流がある場所や、公共の場ではモラルや成文化された取り決めが優先する。 古代ローマにおいで成文法が始まったのは多民族・多言語・多宗教の国家であったのはごくごく当たり前のできことだろう。 場をわきまえるとは、クローズドなコミュティーにおいては先住者の立場を尊重しつつ自分の理屈を押し付けない、パブリックな場所では公共のモラルをもって接する。 ということだと思う。 


話がずれたが、概念の違いに気づかずにものごとが進行するのは、非常に危険なことである。 人と人がコミュケートするということは、話や行動を通じてお互いの概念の擦り合わせを行っているのである。  中には対立することもあるだろうし、譲歩して成り立つ場合もある。 ただコミュケートしなければ、そこには何も産まれない。 自分が自分の思っている事だけが正しいということはないし、相手が思っていることも同様である。  相談するということは 愚痴や自分の意見を聞いてもらい、アドバイスを受けるだけのことではない。  重要なことは相談の中で片方が思っている考えと相手が持っている考えをすりあわせ、双方の共通の課題として捉え直してみるということである。


問題を解決するには、まず「問題があるという認識」、「問題が何かという把握」、「問題についての情報収集・整理」、「問題の解決策に対して仮説をたてる」、「仮説を検証し評価する」というプロセスを通じて行うものだが、一人で問題が解決できない場合、そのどこかが十分でない場合があるということで、第一にあげられるのは自分の過去の経験へのこだわり、次に視点を切り替える柔軟性がない、最後に他の人のやりかたを学ばないということがある。 特に自分の問題に関しては自分で自分を見るための余裕がない場合がある。  

問題を共通の問題として捉え直すにしても、その前提として、さきほどの話で触れた双方が密接にコミュケーションをとっているかいないかが非常に大切になってくるのである。 こだわりをとき、視点をかえ客観的にものごとを捉えさせる。 そしてどうすればよいか教える。  自分の問題に関しては自分が見ようとしているものしか見えないことが多い。 良い方にだけとらえているだけでもよくないし、時として悪い方にしか考えられない時もある。   当然、言えないこともある。 それを解決するためには、もっと大きな信頼関係が必要な時もある。 時にはそれは友情だったり、愛情だったり、全体の信念だったりするだろう。 


いずれにせよ問題というものは生きている限りつきないものである。 解決してもまた新しい問題が起き、頭を悩ます。 ただ、解決の方程式だけはきちんと覚えておいて損はないものだと思う。