いったいネットで何が起こっているんだ? IT Proの記事について

IT Proの記事「いったいネットで何が起こっているんだ?」を読んで思ったこと。

要約するとWeb2.0とかSNSとかネットの動きが最近どうなってるんだかよーわからん。収益モデルとかもわからないしなどと言ってて、この記者は 「恥ずかしながら,最近になってようやく頭の中の整理がついた。同じようにネット企業やIT企業と呼ばれていても,グーグルなどのモノやサービスの売り上げに頼らない企業は,ほかとは別物なんだと。広告や販促支援を大きな収益源とする典型的な事業は,業種で言えば「メディア事業」。なんのことはない,記者が属する出版社の同業者だったわけだ。」と気がついている。

おそらくこれがオールドメディアとりわけ文筆系の人達がネットの動きに対して持っている異和感とか危機感の源なんだろうな。広告収益業における強大なライバルの出現(大笑)

俺の考えだと、現在の大衆..(マスメディア的な方向から見た言い方でw)は趣味の多様性と手段の多様性、要求の多様性の三つがインフレスパライルを起こしている。 WEB2.0は手段の多様性を更に加速させ、先の見えない人にはまったく先が見えない状況にしているというのが現状。

先の見えない人達の考えってのは旧来からのマスメディアから見て大衆に情報をPutするという考え方であって、新聞、出版社、放送局などが情報を大量に与え、その受け手は大衆だった。 というインターネット以前の寡→多の情報の流れということである。

これが、大衆の嗜好性が変化して趣味が多様化してくると、インターネットの中だけでも(実際の大衆の欲求の枠はインターネットの中だけでは収まらないが)、非常に多種多様のものを要求するようになってきている。いろいろ便利なWEBサービス、コンテンツ、ゲーム、メッセージサービスを通じてWEBサイトから自分の欲してるものを欲する。 探すのも得るのも簡単だ。 双方向でのコミュケーションも存在する。情報やサービスの多〓多のやり取りが主流になってきているということである。

対して旧来メディアはどうだろうか? テレビで放送されるものは「作品」だ。出版されるものはすでに「過去」のものだ。 新聞には自分の興味のないところまでのっている。ラジオはパーソナリティしだいでよい知識が得られるが、所詮「音だけ」でしかも自分の都合がよいときに聞くことができない。 おまけにみな一方通行だ。

大衆の方がすでにWEBという手段を通じて要求の多様性に即応するような仕組みを手に入れた以上、インターネットと旧来メディアを大衆の要求の目標として合計して考えれば、旧来メデイアの価値ってのは、実は非常に沢山の要求の目標としての選択肢の中のたったひとつにしか過ぎなくなってきている。 大衆の方の適応性の方が当然早い。わざわざそれを旧来メディアとかインターネットだかとか区別することもしない。 あたりまえのことだが大衆は自分の行動の枠に縛られてないしね。

この大衆側からのメディアに対する新しい価値観の位置づけに対して、情報を大衆に与えているという過信?が、旧来メディア自身を井戸の中の蛙にしている。これも制約の一つだな。 大幅に価値観が低下していることへの恐れが違和感やアレルギーとなって旧来メディアから出ているのが、最近の状況だろう。 なので冒頭の記者の危機感ってのは、まだまだほんの一部の収益モデルのことしか目が届いてない甘い考えだということだ。

話はちょこっと変わるが、なんでこんな違和感がでるのか? 

同じIT Proの記事で「生涯一SE戸田保一さんのプロジェクトX(2)」という記事、金融システムのミッションクリティカルな設計の話とかなのだけど、引用箇所以外にも面白いので読んでみる価値はあると思う。 その中で「戸田さんも凄いけど,野村の当時の経営陣も凄いです。コンピュータやITで何ができて何ができないのか,未来がどうなるのか,1970年代前半に見えていたわけではありません。株屋と蔑まれた業容の転換をどうしても図りたいと思っていた経営陣は,ITがドライビング・フォースになると直感したと思います。」というところ。

ここに文筆者とシステム設計者の違いがあるような。 文筆者は現在、過去のできごとを調べて書く。 システム設計者やIT系開発者、経営マネジメント層は未来に対して起こりうる状況をしっかり考えて形にする。 いうなれば、そういったような人達がWEBでどんどん発信し、アイデアを出し、また其れが実際にコンテンツやサービスとなって提供されてきているのが現状だ。

未来に対する先見性もってアプローチする姿勢と現在、過去の出来事の記録や解説により知識を豊かにしていくという双方の姿勢の食い違いが、その記者の本質的な違和感の源だと思う。